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鳥取伝統芸能アーカイブス
運営主体/NPO法人プロデュース・ハレ
監修/鳥取県教育委員会
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因幡の傘踊り(いなばのかさおどり)

 因幡の傘踊りは、鳥取県東部を中心に伝わる雨乞いと初盆供養の民俗芸能で、昭和49年には県の無形民俗文化財に指定された(保護団体:因幡の傘踊保存会(鳥取市国府町)、横枕傘踊保存会(鳥取市横枕))。現在は約30ヶ所で伝承されているが、県内だけではなく、島根県松江市、岡山県上齋原、兵庫県温泉町、北海道まで広がりをみせている。

鳥取市横枕                                鳥取市国府町麻生



芸態

 傘踊りの系統は、保護団体となっている国府(高岡)系の傘を内側に回すものと、横枕系の外側に回すものに概ね2分される。型や曲目などに大きな差異はなく、100個の鈴をつけ美しく彩った長柄の傘を使い、唄にあわせて傘を回転させながら振り回す、勇壮で動きの激しい踊りである。踊り手は、多くは揃いの浴衣に手甲、白鉢巻、白たすきのいわゆる義士装束と呼ばれる凛々しいいでたちで、背の高い鶴と背の低い亀の2人を1組とし、傘の配列に高低をつけて、6人、8人、10人というように偶数人で踊る。因幡地方の他の盆踊りでもよくみられるように、輪ではなく、列をつくって踊るのが特徴である。
唄の種類は、因幡大津絵、大茅節、浄瑠璃くずし、浪花節、安来節、貝殻節など多くあり、音頭とりが笛や太鼓などの伴奏なしで唄いあげる。なお、踊りは、必ず三番叟という曲から始まるが、この曲のみ笛で伴奏する。


行われる時期と場所

 傘踊りは、毎年8月14日の晩、各地区の納涼祭や初盆を迎えた家で行われる。鳥取市国府町麻生を例にとると、初盆を迎えた家が事前にお願いをしておき、当日は故人の遺影などを用意して待ち受ける。踊りは、三番叟から始まり、その後4曲程度行われる。踊りの間に故人との思い出話や曲の説明がなされ、一軒あたり概ね30分程度演じられた後、飲食が振る舞われる。
このほか、鳥取市国府町では因幡の傘踊保存会が中心となって、平成10年から毎年8月最終日曜に「因幡の傘踊りの祭典」を開催している。子供から大人までの約20の傘踊りチームが競演し、お互いの技術の向上と親睦、更には傘踊りの普及と伝承に努めている。


芸能の由来

 傘踊りの由来は鳥取市国府町、鳥取市横枕にそれぞれ別の話が伝わっている。
鳥取市国府町では、江戸時代末期に大干ばつになった年に、
五郎作(ごろさく)という老爺が笠を持って雨乞をしたところ、数日後に雨が降り大飢饉を免れたが、五郎作は雨乞の疲れがもとで亡くなったため、その霊を慰めようと五郎作の初盆から笠を手に踊るようになった。その後、明治29年頃、鳥取市国府町高岡の山本徳次郎(やまもととくじろう)が、昔から伝わる踊りを冠笠から長柄の傘に替え、剣舞の型を取り入れた踊りを考案したのが現在の傘踊りだという。
鳥取市横枕では、天明6年(1786)の飢饉の際に、大干ばつに見舞われた際、仁平という若者が雨傘に幣をつけ、神楽歌にあわせて踊ったところ、雨が降って干害を免れたので、以来毎年豊穣を祈る奉納行事として仁平の雨乞踊が行われるようになった。この雨乞踊が工夫されて現在の傘踊りになったという。


芸能の広がり

 山本徳次郎が傘踊りを考案したのは、当時若者の間で賭博が流行しているのを憂え、若者の健全な娯楽が必要だと強く思ったのが背景にある。この考案が認められるようになるには紆余曲折があり、山本徳次郎が番傘を振り回して傘踊りの工夫をする姿は、キツネがついたと騒がれるようにまでなったという。しかし、できあがったこの斬新で勇壮活発な傘踊りは、若者の心に火をつけ、青年達は傘づくりと踊りの修練に没頭したと伝わっている。
大正年間から昭和初期、また戦争を挟んで昭和20年代にかけて、多くの地域に傘踊りが広まり、往時は80ヶ所を数えるまでになった。盆踊りの時期に、自村だけでなく他村にまで出かけて踊るのはもちろん、当時盛んに行われた盆踊競技大会などでも、大いにもてはやされるようになった。
昭和40年に始まった鳥取市の夏の風物詩「しゃんしゃん傘踊り」は、横枕の傘踊りを元に、誰でも踊れるように考案されており、今日では毎年3千人以上が踊る鳥取県を代表する夏祭りになっている。


(参考文献)
鳥取県教育委員会『鳥取県の民俗芸能―鳥取県民俗芸能緊急調査報告書―』1993
因幡万葉歴史館『因幡の傘踊り資料集』2004